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身につけるものと意識の関係 

このブログ、しばらく更新してなかった。

べつに僕の日常生活がつまらなくなって書くことがない、というわけじゃないんだけどね。
それどころかネタは以前より増えた。
でも公の場で書くとあっというまに個人特定されそうな話がほとんどだから、近頃はEvernoteに個人的な記録として書く事が多くなったかな。

とはいいつつも、たまにはブログも更新しないとネット上で僕の存在が忘れられそうなので、今日はひとつ
「身につけるものと意識の関係」という話でもしようと思う。

あるフットボールチームに起きた、こんな実話がある。
チームは万年最下位で、「負けて当たり前」というような雰囲気が漂っていた。
ある日、チームのオーナーが変わった。
新オーナーはチームを強くするためには何をすると良いかと考え、普通なら選手を補強したり、コーチ陣を入れ替えたり、トレーニング方法を変えるところだけど、この新オーナーははじめに何をしたかというと、チームのメンバー全員に高級スーツをプレゼントしたそうだ。
これがチームを強くするなんて、誰も想像もできなかった。
しかしたったそれだけで、ほかには特に何も変わっていないにも関わらず、チームの意識が変わり、急激に強いチームへと変貌した。

この実例は、身につけるものが、選手の意識に強く影響することの証と言えるね。
僕はこの話を聞いて、「なぜ身につけるものが意識変化を起こすのか」を考えてみることにした。

稼ぐ人はなぜ、長財布を使うのか?という本がある。


僕自身はこの本を読んだことはないんだけど、ここには「持っている財布の値段×200=年収」という独自の理論が書かれているらしい。
それが統計的に事実かどうかはひとまず置いておくとして、話だけ聞くと荒唐無稽でおかしな理屈に思える。
常識的に考えたら「財布の値段で年収が決まるのではなく、単に年収が多い人が高い財布が買えるというだけの話じゃないか」と批判したくなるのが普通。
しかし、上に挙げたようなフットボールチームの実例がある事を踏まえると、一概にそうとも言い切れない何かがあるような気がしてくるんだな。

日本人には清貧の思考が自然に身についているから、こういう話はなおのこと受け入れにくいのかもしれない。「ボロは着てても心は錦」という言葉があるように、身につけるものはボロいほうが人徳がある、という刷り込みが日本人にはある。

ここをもう少し分析してみよう。
この「ボロは着てても心は錦」という言葉の意味するところと「高級なものを身につけると意識が変わり人生がより良くなる」という話は、はたして両立不可能な矛盾する事象だろうか?

この話に出てくる「ボロを着る人」とは、なにも「良い服を買うお金があってもあえて買わずに好んでボロを着ている」わけではないんだよね、多分。
それなら「ボロを着るが心は錦」というように「あえて着る」というニュアンスが含まれた言い回しになるはずだ。
この人は、良い服を買うお金がないからボロを着てる。
そしておそらく、そのボロは、一般人から見たら「ボロ」なんだが、この人にとっては手に入る中での最高級品であるはずだ。

頑張ってようやく手に入れたのがそのボロなわけで、妥協する気なら素っ裸で過ごすくらいに貧しいのだろう。
つまり、この言葉を僕の解釈で言い換えると「人から見たらボロかもしれないが、自分にとってはこのボロは最高級品だ。そんな最高級品を着ている自分の心は錦である」となる。

そして、このように解釈すると、「ボロは着てても心は錦」と「高級なものを身につけると意識が変わる」という二つの事象は矛盾しないことがわかる。

ものの価値というものは相対的だ。
上記の強くなったフットボールチームのスーツは「高級品」である。
しかし世の中にはそれ以上の、目の玉が飛び出るほどの値段のスーツも存在する。
しかしチームのメンバーが着たのはそのような「超高級品」ではない。
「一般常識的に高級であると言えるスーツ」だ。
もしも高級スーツを越える、「超高級スーツ」の存在をチームのメンバーが知っていたら、強くはならなかっただろうか?
そんなことはないはずだ。
自分自身の価値観に照らし合わせて「価値がある」と言える服を着たという事実が重要だったはずだ。
「超高級スーツを着ている人から見た高級スーツを着ている人」と「普通の服を着ている人から見たボロを着ている人」の相対的な差は、実際のところなにも無いのだ。
この事から、肝心なのは身につけるものの絶対価値ではなく、そのものに対する当人にとっての相対的価値だと言える。

現代人にとっての「ボロ」とはなんだろうか。
今はどうか知らないが、数年前、ハリウッドセレブは皆トヨタのハイブリッド車プリウスに乗っていると聞いた。
彼らはエコロジー意識が高いので、フェラーリやベントレーよりも、燃費に優れたプリウスのほうが、彼らにとっての「高級車」だったわけだ。
プリウスの価格だけ見ると、高級どころかむしろ車の中では安いほうだ。
服に例えれば「ボロ」とは言わないまでも「安物」の範疇。
お金よりも地球環境のほうが大事だと考える人々にとっては、当時のプリウスは「高級車」だった。
逆に地球環境に関心がない人々にとっては、プリウスはフェラーリよりも価値の低い車としか見えないだろう。

もしここで、他人の目を気にしてフェラーリに乗っていたとしたら?
このネガティブな意識はその後の人生にもきっとネガティブに作用するだろうね。
この人にとってはフェラーリはプリウスよりも「ボロ」なのだから、そういう人間になっていく。
「ボロいフェラーリ」を体現した人間になっていく。

これが「清貧」という言葉の意味だと思う。
清貧は、金銭的な貧しさを推奨しているのではなく、心が貧しくなってはいけないと説いている。
「高級品を持つこと」は、必ずしも清貧の思想に反する行為ではない。
身につけるものは高級であればあるほど、自分の意識もこれを持つにふさわしい人物になろうというように変わって行き、人生はより良くなると言える気がする。
ここでの「高級」とは、金銭的価値ではなく、そのものに対する心の置き方を意味する。

清貧を「貧しいことが清いこと」と捉えると、人はどんどん衰退していってしまうよ。
貧しいことに妥協していてはいけないんだな。
「地球環境を守るために貧しくあるべし」と、本質的に物欲を捨てることを理解している人があえてボロを着るのは、高級な生き方と言える。
これとは違い「どうせ自分にはボロがお似合いだ」と意識を低いところに置いている人は、清貧ではない、ただの負け犬だ。

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